2013-09-15

わが家の読書メモ2




スポンサードリンク











・『日記の魔力』表三郎 ※文庫版はタイトルがちょっと違う
・『ぶれない』平山郁夫
・『正法眼蔵 八大人覚を味わう』内山興正














日記は書くものであると同時に、いやそれ以上に、読むもの。




朝起きてから夜寝るまで、その日一日の自分の行動を時間の推移とともに克明に書き記していく。メモとして残し、翌日の朝に日記としてまとめる。




自分の行動がわかれば、自分が何者かもわかる。




「時間」を記録しておけば、日常的なことがすべて「これをするには何分必要」とわかり、時間管理の精度を大きく高めることができる。




一日の始めに日記を書けば、昨日という日を踏まえたうえで、今日これからをどう生きるかという視点が生まれる。




内省を書いておいても意味はない。書いておくべきことは、それを踏まえて具体的にどうするのかという決意だ。決意は絶対に書くべき。

日記で繰り返し決意を読み、何度も決意を新たにして臨んでいくから、現実が動く。




著者(表三郎氏)は夜9時に寝て午前1時に起きる。




心が乱れていると生活が乱れるが、それは生活が乱れているから心が乱れるとも言える。




未来の自分が「ここに書いてあってよかった」と思ってくれるようなことを丁寧に、正直に書いていけばいい。













どんな形にでき上がるのか皆目見当もつかず、また、その部品が仕上がりのどの部分のものなのかもわからない状態、そんな中でもみがき続けてきた部品たちは、バラバラだったものにもかかわらず、ある日突然一つにまとまって、素晴らしい「完成品」になる。




基礎となる底辺がしっかりとしているから、石を高く積み上げることができる。「底辺」を広げることは「高さ」を出すことだ。




人間というのは樹木のようなもの。暖かい所でただスーッと伸びたような木は、見た目は大きくてもスカスカになる。冬の寒い時期に伸びにくく細く堅く締まる経験を得てこそ、中身が詰まり強い木になる。




「知識」と「教養」とは違う。一つの知識から派生するさまざまなことをも知っていて、それを自分自身の中で生かしている人が教養人。道の行き詰まりや人生の岐路において最も役立ち、新しいものを生み出す力でもあるもの、それが教養。

新しいものを生み出せるかどうかは、先人たちの多くのものを教養として学ぶのか、模倣するにすぎないのかによる。




「右」も知り「左」も知るので、「真ん中」もわかる。その全体から見て「自分はどうなのだ」と考えられる。

ムダかな、と思うような勉強も、長い目で見れば決してムダにはならないもの。




並の練習ではとても一流にはなれない。人が五時間やるのなら、自分は七時間やらなければならない。そして、やった分は必ず自分に返ってくる。

三年後の稽古をしろ。今やっていることは、三年後、五年後、十年後に自分に返ってくる。

努力に関する限りは、やらないよりはやることがすべてで、とにかく、いろいろなことの積み重ねがその人の人間性を形づくっていく。




才能を大成させるには、それを支える理念や人間性、人格が必要だが、それらは反復し、持続することによってやっと身についていく。それこそが本当の個性に違いない。

本当の個性というのは、揺るぎない価値観を持つこと。自分の哲学を持つこと。

何が来ようが、誰に何と言われようが、「私はこれだ!」というのが本当の個性。あっちへふらふら、こっちへふらふらと動くようでは仕方がない。




真っ暗闇の中をひたすらに進む。その中でこそ、わずかな光も見えてくる。

「迷い」をいかに「無心」に変えられるか。




「美しいかどうか」。人生すべてにおいて、この基準に当てはめて考えるとほぼ間違いはない。




一番大事なものは何か? 今が大事である。













諸仏はこれ大人なり。一方の我々は生理的には大人でも魂はまるっきり子ども。「アレ欲しい、コレ欲しい」と愚図るのが、おもちゃやお菓子からカネや名誉に変わるだけ。

「本当の大人になれよ」というのが仏教の総結論。




生きるために欲がある。欲のために生きてしまっては本末転倒であり、生きることを損なわない、後で後悔することのない欲の満たし方が最低限である。もっと言えば、本来は生きることを活かす欲の満たし方であって当然なのだ。




涅槃とは、生まれる以前に堕ろされた、あるいは、すでに棺桶のなかに入ったところから自分の人生を見直すことであり、坐禅というのもそれを行うことである。




後生とは、「死を明らかにした後の生」であり、死ぬときにはこの世のあらゆる持ち物、思いをすべて投げ捨てていくことになるのを悟った後の生。




「空閒に独処す」―― 自己の存在価値を自己において見出すこと。




一切衆生ぐるみの自己ということ。「私」と「私以外」とがあるのではなく、私の中に「私」も「私以外」も含まれているのだということ。




道元禅師の教えを一言でいえば、「祇管」ということ。坐禅のときは坐禅だけ。作務(作業)のときは作務だけ。典座(炊事係)のときは典座だけ。それが祇管。









スポンサードリンク


  • このエントリーをはてなブックマークに追加

0 件のコメント:

コメントを投稿